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私は1941年、アメリカで最も古い歴史を持つ街のひとつ、ボストンの隣にあるマサチューセッツ州サマーヴィルという小さな町で生まれました。私の祖父母はアメリカンドリームを夢見て移住して来たイタリア人で、ボストン北部のリトルイタリーで暮らしていました。暮らしは決して楽ではありませんでしたが、挫けることなく辛いことをバネに変え、苦労の末、快適な暮らしを手に入れました。自分たちのルーツを忘れることなく、イタリア文化を重んじながら、彼らは異国の地で明るい未来への人生の再スタートを切ったのです。



 祖父母はアートが大好きで、両親も常にアートに触れながら育ちました。教育も十分に受けられない貧しい環境の中でもアートに関しての知識は豊富で、幼い私は何度も驚かされたものです。そして私もそんな祖父母や両親と共に、メトロポリタンオペラ、クラシックミュージックなどを毎週ラジオで聴いたり、著名人の伝記などを題材にしたテレビドラマを見たり、また日曜日にはドレスアップして「ボストン交響楽団」や、シアターで開催されているマチネー(演劇や音楽会などの昼興業)に出かけていました。ボストンは古い歴史があり、文化的レベルも高い街です。祖父母がボストンに移住し、この地で新しい家族を作ったことは、私にとってとても好運なことでした。



 そんな幼少時代を送った私がアートに携わる人生を送ることは当然とも言えるでしょう。長年コレクターという立場からアートと関わってきました。それがアーティストという立場に変わったのは数年前です。それまで自ら筆を持ち作品を作るなどまったく想像もしていませんでしたが、幼い頃の体験を思い出すと、私はすでに子供のころからアーティストであり、自分のアーティストという才能や感性に気づくのが少し遅かっただけかもしれません。

 アーティストへの転機は40年以上勤めた電子関連のビジネスキャリアに終止符を打ち、退職後、妻とさまざまな国を訪れていた時のことです。沖縄に滞在中「楽しむ程度に、暇にならないように」と妻がアートクラスへの参加を勧めてきたのです。それまでの私のアーティスト経験と言えば、子供の頃、妹とクレヨンでディズニーキャラクターを描いたぐらいでしたが、その絵がとても上手に描けていたことを思い出しやる気になったのです。



 色弱(赤と茶色)の私にとっては、油彩画や水彩画のクラスはとても難しいものだとわかっていました。父はペンキ塗装の職人で優れた色彩感覚を持っていたため、私が表現できない色の描写方法を辛抱強く教えてくれました。コンピューターの力を借りず、昔ながらの視覚と抜群の勘を駆使して見事に色を混ぜ合わせ無限の色を作り出す、そんな素晴らしい才能を持った父との時間は、私にとってはかけがえのないアートクラスでした。


 沖縄のアートクラスの指導員ヨシダ氏との出会いは、私のアーティストとしての才能を開花させました。初めはアートに関して知識も経験もない私に基礎からじっくり指導し、後に私が描く平凡な絵に対し、もっと情熱的な絵を描くよう難しいテーマに挑戦させました。今思えばその瞬間が、私のアーティストへのターニングポイントだったのでしょう。それからというもの、驚くことに鉛筆やペンの使い方が格段に上達し、それよりもアーティストが自分の天職であると思えるようになったのです。鉛筆やペン、絵の具、画用紙があればいつでもどこでも絵を描くことができました。自分の人生を振り返り、ある瞬間、ある出来事、またその時の自分の気持ちを自由に表現し、そしてそんな豊かな才能を持てたことに感謝しました。



 現在、私は妻と共にドイツのライラント・プファルツ州にある小さな街で暮らしています。スタジオで創作活動に専念する一方、築200年の家屋をリフォームするなど日々の楽しみを見つけ充実した時間を過ごしています。


 「色弱なのになぜ絵が描けるのか?」と質問されることがあります。私は100%自分の力を作品を仕上げます。「必要は発明の母」ということわざの通り、足りない部分は経験を積むことによりカバーする術を見つけてきました。


 アーティスト人生がこれからどれほど続くのか、またどんな冒険が待ち構えているのか、全く想像がつきません。しかしアーティストとしてあり続け、与えられた才能を存分に生かし、可能な限りアーティストとしての人生を楽しみたいと思っています。

ジェリー  セグリア

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